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人間は死の恐怖に耐えられるようには作られていないらしい

初めて自分が死の恐怖に囚われたのは、恐らく小学校中学年の頃だろうか。小学校に入る直前に父が亡くなり、三年生から四年生にかけて、病気のため運動禁止になった。

その頃の記憶は曖昧だが、死んだらどうなるのだろう、という漠然とした恐怖に夜毎支配され、気弱な少年をさらに弱くしていた。どうして僕にはお父さんが居ないのだろう、どこに行ったのだろう、僕が死んだらどこへ行くのだろう。恐怖だった。本能的には、死んだら全てが無くなるだけだ、と気付いてはいたのだろう。

いつ、どんなきっかけでその恐怖を無視できるようになったのかは、全く記憶にない。友達もでき、運動も再開し、いつの間にか考えなくなった。気弱なことには変わりなかったが、勉強も運動もそれなりに出来たため、学校が楽しかったからかもしれない。

 

それから長い年月が経って、色々な経験をした。もちろん、様々な人の、様々な終わりをそれなりに見てきた。とは言え、私にとってそれはやはり他人事で、恐怖に囚われる程のダメージを受ける事は無かった。

だが、今年になって恐怖に囚われた時期があった。今まで経験したことの無い、胃腸の不快感…私は胃がんを疑った。胃カメラを予約し、検査結果を聞くまで、私の心は恐怖に縮み上がっていた。結果綺麗な胃壁を見せられただけだったが…。不快感の原因はなんとなく分かってはいた。兄の病気の所為で、自分や家族に様々な問題が浮上していたからだ。普段強がっていても、きっかけがあれば、自分の心はこんなにも簡単に弱ってしまうということを嫌という程分からされた。

 

そして今週である。今は何故か落ち着いているが、ここ三、四日はヤバかった。今日の夜にまたヤバくなるかもしれない。兄と同じ病気になったのではないか、という恐怖が頭から離れない。可能性は低いとは思っているが、100%大丈夫とは言えない。

恐らく来週の検査で結果が出るまでは、この状態が続くのだろう。医者に安心させて欲しい、と思っている。そこでよくない結果が出たとき、自分はどうなってしまうだろうか。

 

人はいつか死ぬ。人はその事を分かっているが、そのことを無意識に考えないようにしているらしい。考えていると耐えられないからだ。そして死に直面した時に、その人が過ごしてきた日々が試されるのだろう。

私は恐怖には耐えられそうもないので、元気に生きて、もういつ死んでもいいや、となってからコロッと死にたいものだ。